池波さんは大正12年浅草生まれ。その頃の下町の情緒や日々の暮らしについて、いろいろとエッセイに書かれています。老人のいない家は、家ではない。この言葉は印象的です。
日本はこのままだと、老人だけが住む家ばかりになりそうですが、それはさておき、日本の衣食住の文化を伝えていくうえで、高齢者が果たす役割は、これから更に増していくでしょう。そして、若者と高齢者が共に暮らすことの大切さも、もっと強調されるようになるのではないでしょうか。
住宅には、屋根、外壁、内壁、床、天井などのいろいろな部位があり、その仕上材料に求められる性能や美しさは各々違います。しかし、住宅を一つの家として見た場合、全体としての統一感や連続感は大切な要素です。
我々は仕事柄、これまでたくさんの仕上材料も見てきているし、その良いところ、悪いところも知っていて、ある種の免疫(抗体)のようなものがありますが、住まい手は一般にそういうことについて無防備です。仕上の種類を少なくするというのは、ひとつの有効な手段ですね。
邱永漢さんは、未来の予測が当たることと、思い立ったらすぐ行動に起こすことに関してはとても有名な方。マイホームのことに関しても、税金や資産のことも含め、これまでいろいろと言及されています。ちなみにこの言葉は、40年以上も前のもの。
住宅は将来を見越して建てるものですが、その将来がどういうものになるかは誰にも分かりません。しかし、その中で家族にとって不変なものは何か、何を拠りどころに暮らしていきたいのか、をよく考え、そして決めることが、家づくりのとても大切な基本作業になります。
世界の近代建築の巨匠といわれている建築家も、日本文化から多くの影響を受けながら自分たちのスタイルを創り上げました。現代の、世界中の若い建築家たちもまた、日本の建築を学んでいます。
わたしたちは、自国がそのような誇らしい建築文化を持っているということを、あまり知りません。住まいの中にもこの伝統や精神はたくさん残っています。それらを後世に受け継いでいくことも、大事なことですね。
住宅は、自分や家族の身を守ることから始まっています。つまり、安全、安心は家づくりの基本中の基本ということですが、そのことは日頃、あまり意識されることはありません。ところが、一旦大きな災害や不祥事などで不安が露呈されると、人はパニック状態に陥ることになります。
それだけに、住宅の快適な居住性は、確実な安全性に裏付けれたものでなければならず、専門家はこのことを、住まい手に意識させることなく、常に実行するものであるべきなのです。
実は容器の方もそう「簡単に」できるものではないのですが、それはさておき、これは江國さんのおっしゃるとおり。我々が増改築で一番気をつけていることは、そこにこれまで住んできた人、そしてこれからも住み続ける人のことです。
長年住んできた家に対する思い、それから工事中の心労や負担、環境が変わることへの期待と不安などなど。増改築には「善」ということで簡単に片付けられないことがたくさんあります。
風呂敷は、その機能的な汎用性やコンパクトな携帯性に加えて、そのもの自身の美しさや経済性などから、非常に優れた日本文化の象徴であると言われています。この風呂敷の思想を、住宅に生かすということも、おおいに考えたいところです。
家はその中での行為があってこそ家になる。家は、住む人が形づくるものである。家をつくる側は、風呂敷のような優れた素材と利便性を自在に使って家族の生活を包み込む。つまり、初めに家ありき、ではないということですね。
いくつかの部屋が一つの庭に向かっている。ただ、視線や角度、開口部の形などがそれぞれ違うために、各々の部屋からは異なったシーンが楽しめる。しかも、その庭が一つにつながっていることで、その場を共有しているという心理的な安心感もある。
このような演出が、古くからの日本建築の定石だったわけです。でもこれは、特にお座敷をもつような大邸宅でなくてもできることです。小さな庭でも、いろんな方向から眺めてみると、まったく違った姿を見せてくれます。
よく「樹木は人間がいなくても生きていけるが、人間は樹木がないと生きていけない」と言われます。しかし人間の行為は、多くの場合、その貴重な樹木をなくす方向にむかっているようです。
家づくりもそのひとつに数えられるかもしれません。庭をつくり草木を育てることがその免罪符になるとは思いませんが、自然に感謝し、自然を尊ぶ心を忘れないようにするためには、家づくりに欠かせない大切な要素と言えるのではないでしょうか。
出江さんは、「建築屋」=ものを売っている人、「建築士」=技術を売っている人、「建築家」=心にかかわるものをつくる人、という区別をされています。
さすがに魯山人を持ち出されると、たいていの「建築家」はたじろいいでしまうでしょうが、モノや技術を売るだけでなく、心にかかわるものをつくろうと心掛けることはできますよね。良識をもった誠実な、「建築ができる」つくり手でありたいものです。
「どこがいいって聞かれると困るんだけど、取り立ててここがスゴイっいうものはないんだ、欠陥もあるしさ。でもなんとなく暖かくって、気負いがなくって、やさしくって、なにか癒されるんだよねぇ。しいて言うと、バランスの良さっていうのかなぁ。自然体の中に、そこはかとない個性がにじみ出てるっつうか、、、そんな感じなんだよねぇ」
あなたって木材のような人ね、と言われると、ケッコウ嬉しいかも。
家づくりの楽しみは、「趣味が高じること」というか「節度のある悪ノリ」なのかもしれません。でもそれは、やはりその人の情熱があってのこと。わが高尚なる風流をぜひ追い求めてほしいと思います。
家をつくっている人の中に、この言葉を否定する人は、いないでしょう。しかし現実には、それがかなえられていないことも、多々あるようです。住宅とは、そこで生活をする人たちの「幸せ」をつつむもの。そのことを、いつも心にとめて、家づくりをしていきたいと思います。
文人や茶人、芸術家などに多かったようですが、老舗の旦那や横町のご隠居といった粋人の中にも「通」がたくさんいました。それから、忘れてならないのは、「主婦」の多くが、住まいの使い方や手入れなどを熟知した住まい通」だったということですよね。
機能を無視した形だけのものはいただけませんが、物語が生まれそうな、人の心を動かすロマンチックな窓は、ぜひ住宅の中に取り入れてみたいものの一つです。
谷村さんは引っ越し魔、だそうです。先日会った同い年の友人は、今度生まれて初めて引っ越しをする、と言っていました。僕はいままで4回引っ越しています。人それぞれですね。
多くの場合、家を建てると、別の所からそこへ引っ越すことになります。そして普通はそこに長く居着きますが、子供たちは早晩そこから引っ越していくことになりますよね。家は、家族を繋ぎとめておくところではなく、家族を育て、巣立たせていくところなんですね。