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家づくりの名言
2006.1.25更新
金が入るとすぐ家を建てかえるのはむかしもいまもかわらない。どの家も、まっさきに庄屋門を建てたのは、それが前時代には金力の象徴のようなものだったからであろう。前時代には、庄屋門の背景に気の遠くなるような献金とそれを可能にする富力があったのだが、明治後は、門の建設費さえあれば建てることができる。
 
(司馬遼太郎・作家)

明治時代以前には、門や玄関、座敷の欄間などは自由につくることができませんでした。苗字帯刀と同じように、権力や金力の象徴であったからでしょう。住宅にはこのように、機能以外の歴史的な「意味」を持つ部分もあります。

かつてできなかったことを求めるというのは、人の常、自然のなりゆきです。しかし、これは永遠に繰り返されるものでもあります。それを知った上で、いま何を求めるのか。それがすなわち、その家の品格を決めることになるのでしょう。

笠井義文

2006.1.10更新
ともあれ、改めて言おう。団欒はいつでも自然に存在するものではない。団欒の場を設けるだけでは何も生まれない。家族がお互いに、努力して創り出すものなのだ。子供が幼ければ、親がきちんとそうした行為の意味を教えるべきであり、大人であれば、それ相応の努力をお互いにすべきであろう。
 
(内田青蔵・文化女子大教授)
住まいの設計を考えるとき、家族の団らんの場として、居間や家族室というような部屋名を書き入れます。しかし、内田さんが言われているように、そのような部屋を作っただけでは、家族の団らんは生まれない。そこには、お互いの守るべきルールやそれを尊重しようとする努力が必要なんですね。

そういえば、我々が幼い頃は、団らんを「強要」されていたように思います。強要や強制が全て悪で、自由や放任が全て善であるかのような昨今の風潮が、逆に家族室というものを、空虚なものにしてしまっているのかもしれません。

笠井義文

2005.12.25更新
昔私は皆さんに申し上げたいのです。家づくりに失敗しないための方法や、ダマされないための方法を書いた万巻の書物を読むよりは、設計者や職人たちとどのように信頼関係を気づいていくかを学ぶことのほうがはるかに大事であると。
 
(高橋修一・建築家)
もうみんさんも飽き飽きされているだろう、あのニュース。結局、住宅や建築に関わる人たちが「ダマしたり、ダマされたり」ということです。もちろん、ダマす人間は一番悪い。しかし、ダマされまいとすればするほど、ダマされ易くなるということも、実際にはあります。

住まいを求める人がいて、それを提供する人間がいる。それぞれが勝手な思いこみでことを進めると、絶対に良い結果にはなりません。そして、それらの人をつなぐ信頼関係は、やはりお互いの会話から。相手を尊重する気持ちをもって、何でも話し合うこと。家づくりはまずそこからはじめてください。

笠井義文

2005.12.10更新
ぼくのつくった家は、10年ぐらいたってから喜んでくれるのです。それはぼくが家を流動的にとらえているからじゃないかとおもうのです。
 
(吉村順三・建築家)
これは、じつはとても意味深い言葉です。吉村さんの愛弟子である建築家の奥村昭雄さんは、師のことを次のように言われています。

吉村は土をこねるように設計を進める。その土は、初めは敷地の形であり、施主の感情を移入した彼が、その上を歩きながら空間を作り、こわし、また作っていく。吉村にとって、最も大切なものは空間そのものである。それは抽象的なものではなく、景色があり、光と風があり、そこに人が居る空間である。だから、彼の作品はいつも優しく、心地良い。

家はこう作られるべき、そしてこのような設計者でありたいと思います。

笠井義文

2005.11.25更新
われわれ構造屋は、ピラミッドを設計させてくれとは言わない。直径3mの柱も望まない。天秤は水平でなくてもかまわない。多少経済性の方に傾いても、それはお互いに商売であるからがまんもしよう。ただ願わくば、<危険な範囲>のスポンジを、へこまさざるをえないようなはめに追い込んでくれるな。
 
(海野哲夫・構造設計家)
連日報道されている千葉県の建築士と、この海野さんは共に構造の設計を専門にしている人。建築の安全性は、経済性と無縁ではありません。というより、むしろ密接な関係にあるといった方がいい。そして、構造を考える人(建築士の多く)は、常にその天秤を意識しています。

海野さんは、それらを十分承知の上で、安全のラインが危険の範囲に行かないよう必死に戦っている一人。しかし、なかには経済の論理で、そのラインを簡単に下げてしまう人もいます。これは外部から規制するというより、むしろ建築士のモラル、内面の問題ですが、お金お金というと、そのモラルも揺らぐのが人間の弱いところでもありますから、怖いですよね。

笠井義文

2005.11.10更新
僕は共同体内共同体だと思うんです。地域という大きな共同体の中に、家族という小さな共同体がある。その二つの共同体を調停するための装置が住宅なんだと思うんです。
                 
 
(山本理顕・建築家)
共同体とか調停とか装置とかいう難しい言葉がならんでいますが、つまりは、人と人がいて、その人と人を繋ぐものが住宅なんだということだろうと思います。

あくまで個人が基本単位ではあるけれど、やはりそれだけでは生きられないのが人間。「寂しさ」を共有する人と人が集まって家族や仲間をつくり、それをバックアップをするのが住宅だ、という考えはちょっと感傷的すぎるでしょうか。

笠井義文

2005.10.25更新
日照がほしい秋から冬にかけては西日がさす家のほうが健康的にもいい。夏の暑さを防ぐには庇を長くすればいいんです。私は西日が大好きなんです。
 
(林玉子・建築家)
西日は悪者、排除すべきもの。住まいを設計する際に、こういう戒律とも言えそうなものと出くわすことがあります。しかし、それらの多くは、あくまで一般論。その他の要因(たとえば、立地条件や家の形、性能、家族の好みなど)によって、実はその解釈は千差万別になるのです。

一般的に常識とされてきたもの、固定の観念を、一度疑ってみるのも住まいづくりの大切なポイントですね。

笠井義文

2005.10.10更新
大人が子供に対するのと同じように、現代の日本人は住宅をあまりにいじくりすぎるきらいがあります。豊かな空間がドッシリと家を支えていれば、あとはほどほどに静かに佇んでいればいいのです。
                 
 
(高橋修一・建築家)
豊かな人間性と存在感を持ったお父さんが、ドッシリと、ほどほどに静かに佇んでいれば、家庭は安泰。いまは無き、古き、良き、遠き・・・・。

新建材と新製品に囲まれたチマチマした家を捨て、豊かで、おおらかで、ドッシリとした、本物の家に住みたい。と言いたいのはやまやまですが、なかなかそういかないのが現実です。さればせめて、確保できた空間を、さらに細かく区切ることなどせず、そこに広がりを、与えてあげてほしいのです。

笠井義文

2002.9.25更新
子供が中学高校になってしまってからでは遅すぎる。幼いときから子供は家じゅうをかけずり回る、個室なんぞいらない、ひと時代前の私たちの家には、たとえ裕福でも個室なんかなかった。
                 
 
(山本夏彦・コラムニスト、元「室内」編集兼発行人)

普通の家庭で、一人に一つずつ、子供部屋が造られるようになったのはいつの頃からでしょうか。僕の育った家では、3人兄弟(兄、姉、私)に一つの部屋(といっても襖で区切られた4帖半の和室ですが)が与えられていました。

今から思うと、そこでどうやって暮らしていたのか想像しがたいですが、人と人との距離感や、お互いへの思いやりのようなものは、そういう生活空間のなかで学んできたような気がします。幼い頃に暮らした住環境が人に与える影響は、予想以上に大きいものです。

笠井義文

2005.9.10更新
今私にとって台所は楽しい居場所、ないなんて考えられないぐらい重要な仕事場です。家の大きさにしては立派な台所と思っています。もちろんスペースのことですが。なにしろ家はマッチ箱みたいにコンパクトで、居間以外の部屋は小さい。
 
(大橋 歩・イラストレーター)

料理を作ること、そして家族や来客と楽しく食事をすることが大好きな大橋さんは、台所も大好き。これまでいくつもの台所を経験し、また造ってもこられました。

でも、それらの台所は、決して豪華なものではありません。シンプルな機器とお気に入りの道具。そして食堂や居間と一体となった豊かな空間。そのことに焦点を絞り、そこで時を過ごす人たちをみごとに主役にしています。こういうのがほんとの贅沢なのかもしれませんね。

笠井義文

2005.8.25更新
便利だとか安いということがモダンリヴィングのターゲットになっているようにも思う。私はそれを聞くたび、「今日の便利は明日の不便」或いは「安かろう悪かろう」と自分に言いきかせることにしている。
 
(清家清・建築家)
30年近くも前のこと。「違いのわかる男」というテレビCMがありました。このCMで、この世に建築家という人がいることを、初めて知った人もたくさんいたのではないでしょうか。

斬新な形の住宅模型とともに、ブラウン管に映し出された「清家清」という建築家の存在感は、いまでも強く記憶に残っています。

清家さんは、便利や安さを決して目の敵にしていたわけではありません。ご自分も含めて、それに流されそうになることに抵抗し、便利や安さの本質を捉えることこそ大切だ、と言われているのです。

笠井義文

2005.8.10更新
懐かしいという心の動きは、喜怒哀楽の感情とはちがう不思議な感情で、人間にしかない。犬は古い犬小屋を振り返ってシミジミするようなことはしない。人間が、昔のものが変わらずにあるシーンに出会った時に、この感情が湧いてくる。
                 
 
(藤森照信・歴史学者・建築家)
そうか、シミジミするという感情は人間にしかないんだ、ということを知ると、なんだか「シミジミすること」がとても大切なことのように思えてきますね。でも、郷愁とシミジミはちょっと違いますよね。やっぱりシミジミは、シミジミです。

これから建てる住宅が何十年か後にシミジミ感じられるようになるための条件とは何か。それは、まずそこにチャント歳をとった家があること。そして、周りの風景もそれなりに風情を保って残っていることでしょう。それでは、そのために今何をしなければいけないのか。じつは、これはけっこうたいへんな課題なのです。 

笠井義文

2005.7.25更新
これは何度でも強調したいが、どうして立派な大人が個室を、それも、仕事場を持とうとしないのだろうか?子供が個室を持っているのである。まったく本末転倒である。
 
(鷲田小彌太・札幌大学教授/哲学・倫理学)
男性にとっての書斎、女性にとっての台所。これは、家をつくるときに希望が集中するところです。それは「長年の夢」だったり、「必須条件」だったりするのですが、どちらかというと、台所に軍配の上がることが多いようです。

売る方もそのへんは目ざとく、綺麗なキッチンセットやカップボードは次から次へと、便利な設備機器は日進月歩で開発されています。しかし、書斎の方はまだ、一部の雑誌に特集が組まれる程度にとどまっているようです。

主婦にとっての台所が仕事場であるように、主人にとっての書斎は、住宅の中での大切な仕事の場所といえるでしょう。そして、ここでのつかの間の骨休め(自分だけの時間と空間を満喫すること)。これがまた、極上の楽しみなんですよね。

笠井義文

2005.7.10更新
建物の表情は昼と夜とでまったく異なります。たとえば夜、照明をつけますね。その照明は内部を照らすだけでなく、外の街に対して何らかの役割を果たす。それはどういう役割なのか、どう見えるのか。昼の顔だけでなく、建物がもつ夜の顔にも意識をもたなければならないと思うんです。
 
(葉祥栄・建築家)
街並みの景観がとても大切、と言われはじめてもう四半世紀がたちます。家は個人のものでもあり、風景をつくるものとしてみんなのものでもあるんですね。

家の表情は、季節や昼夜、天候によってもかなり異なります。特に昼と夜とでは、光と陰が反転してしまうので、全く違ったものになるといってもいいでしょう。

また、家は外観だけではなく、たとえば居間のような内部の空間も、昼と夜とでは全く違う表情を見せます。昼の居間と夜の居間を別々に考えてみるなどというのも、面白い発想かもしれませんね。

笠井義文

2005.6.25更新
明確な用途がないのに家の中心をなしていて、無用の用というか、豊かな無駄というか、まさに人間がゆとりの美を好む生き物だ、という例証だと感じられた。以来アトリウムは、私のひそかな憧れとなったのだが、貧乏物書きの身の上ではローマの富豪の真似など夢のまた夢とあきらめていた。
 
 
(大岡玲・作家)
アトリウムというのは古代ローマの中庭に由来するもので、今ではガラス屋根などの架かった開放的な内部の広場などをさします。このような贅沢なものを自分の家に、とはなかなか考えられないですね。

しかし、「人間はゆとりの美を好む生き物」。日本にも古来から坪庭とか露地とかといったアトリウムに優るとも劣らない空間がありました。

贅沢とは、人の心が決めるもの。そこにどれだけお金をかけるか、お金がかかっているかではなく、そこにどれだけの価値を見いだせるか、ということですね。

笠井義文

2005.6.10更新
居間は「ただ居る場所」「何もしない、何もしなくていい場」だというのが私の解釈です。逆に言えば「何をしてもいい場」でもあるわけです。どう使うかは、住み手の家族がルールをつくっていけばいいことで、私の役目はそうした場を造っておくことです。
 
(永田昌民・建築家)

居間というのは、実はずっとまえから、設計者にとっての大きなテーマなのです。「何帖の間」や「茶の間」といったものが、住宅の西洋化にともなって「居間」になったとき、そこは、日本人にとって、何をしていいか分からない場所になってしまいました。

また、めったに腰が下ろされないソファ、ほとんど開かれない豪華本が並んでいる書棚、高価な電気製品が置かれているところ。これが居間(兼応接間の場合も多かったですが)の定番でもありました。

ですから、いまこの「居間は何をしてもいい場所」という解釈が、逆に重みをもって聞こえるんですね。

笠井義文